暴れん坊源為朝(みなもとのためとも)流刑の地でも大暴れ!?伊豆諸島制覇か?

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暴れん坊源為朝(みなもとのためとも)流刑の地でも大暴れ!?伊豆諸島制覇か?

風雲児源為朝(みなもとのためとも)の伊豆諸島制覇

平安時代の流罪で遠流(おんる)の対象国であった伊豆や伊豆諸島ですが、源為朝は平安時代末期に保元の乱で捕えられ、伊豆大島に流罪となりました。

伊豆半島に流罪になったのは、源頼朝やその前には文覚上人もいます。

身分の高い方や政治上の重要人物などは都から遠い所に流罪となったようです。

源為朝(みなもとのためとも)とは

源 為朝(みなもと の ためとも、旧字体:爲朝)は、平安時代末期の武将。源為義の八男。母は摂津国江口(現・大阪市東淀川区江口)の遊女。源頼朝、義経兄弟の叔父にあたる。

身長2mを超える巨体のうえ気性が荒く、また剛弓の使い手で剛勇無双を謳われた。生まれつき乱暴者で父の為義に持てあまされ、九州に追放されたが手下を集めて暴れまわり、一帯を制覇して鎮西八郎を名乗る。保元の乱では父とともに崇徳上皇方に参加し、強弓と特製の太矢で大いに奮戦するが敗れ、伊豆大島へ流される。しかしそこでも国司に従わず、大暴れして伊豆諸島を事実上支配したので、追討を受け自害した。

出典 http://ja.wikipedia.org


為朝が余りにも大暴れをするので、13歳の頃に父親(為義)に勘当され、九州に追放されてしまったのです。
14、15歳の頃は九州でも豪勇。
15歳で九州一円を平定とあるので、凄まじいです。

保元の乱で捕らえられたときは、京の人たちが怖いもの見たさに、路上市をなしたと伝えられています。

伊豆大島に流罪となってからも意気消沈することはなかった!



伊豆大島 三原山

為朝は三郎大夫忠重(さぶろうたいふただしげ)の娘と一緒になり、大船団を作り伊豆諸島制覇に乗り出しました。

最初に上陸したのは新島で、このとき庄屋の土屋平右衛門宅に案内をしたのは、2羽のキジだったと伝えられています。

平右衛門は為朝をもてなし、平右衛門の娘は為朝の子を身ごもりましたが、生まれる前に為朝は八丈島制覇に出航しました。

別れを惜しむ娘に為朝は、一振りの刀と二幅の絵を残して行きました。

為朝は都に攻め上がる野望に燃えていたのです。
八丈島や鬼ヶ島まで軍団を補強して行き、ついに都の後白河法皇に知られてしまいました。
怒った後白河法皇は狩野茂光に為朝を追討の命を下し、茂光は五百余騎(ごひゃくよき)もの兵船で伊豆大島に向かいます。

狩野茂光(かのうしげみつ)

伊豆大島を所領としており、保元の乱(1156年)で大島に流罪となった源為朝の監視役となる。やがて為朝が流人の身でありながら周辺諸豪族を切り従えて自立の動きを見せたため、嘉応2年(1170年)にこれを追討し自害に追い込んでいる。

出典 http://ja.wikipedia.org


為朝は大群には勝てぬと思い自刃を決意しました。
為朝は兵を解き、大鏑矢(おおかぶらや)を引き絞り敵の軍船にめがけて矢を放ちました。

大鏑矢は見事に軍船を打ち抜き、軍船は沈んで行きました。

八丈島の西に浮かぶ八丈小島で自刃したとも伝わっています。



八丈小島

八丈島 為朝神社

源為朝が八丈に来てみたら、島には女しか住んでいなかった。男女同居すると海神の祟りがあると信じ、男は青ヶ島、女は八丈島に住んでいるのだという。

為朝は島の娘を嫁とし子を産み、男女同居することの喜びを教えた。

ここは為朝遺跡の集約されている場所で、神社、腰掛け石、耳跡の石、城跡、為朝が射抜いて造った隧道上の切り遠しがあり、神社上の断崖にも伝説がある。
ー為朝神社の看板ー

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