世界遺産五箇山【相倉合掌造り集落】【菅沼合掌造り集落】と不滅の火

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世界遺産五箇山【相倉合掌造り集落】【菅沼合掌造り集落】と不滅の火

日本の原風景 合掌造りの集落と伝説「不滅の火」平成29年12月更新

富山県南砺市の世界遺産に登録されている五箇山の菅沼合掌造り集落と相倉合掌造り集落は、「日本の故郷」「日本の原風景」と紹介されています。

♪ぼ~や 良い子だ ねんねしな~

なんて聴こえて来そう。
目を閉じると子供のころに赤トンボを追いかけた里、魚釣りをした川、走り回った畑を想い出す人も多いのではないでしょうか。

ここでは民家で五箇山での生活を体感できるという。
土地の人たちとの触れ合い、そこでしか食べることのできない料理、そこでしか見ることのできない景色。

五箇山で貴重な”時”を過ごしてみたい。

世界遺産

北陸の名峰白山。
その山並みの東側の渓谷、白川郷・五箇山の集落は、日本では6件目の世界遺産です。
1995年12月9日にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。

歴史

この地域は白山信仰の修験者や平家の落人伝説とも結びつきが深い。白川郷の地名は12世紀半ば、五箇山の地名は16世紀にはそれぞれ確認できるが、合掌造りがいつ始められたのかは定かではない。江戸時代中期にあたる17世紀末に原型ができたと推測されている。
江戸時代の白川郷は金森藩領と浄土真宗照蓮寺領となり、前者はのちに天領となった。一方の五箇山は加賀藩領となり、塩硝生産が保護されていた。塩硝は火薬の原料となる硝酸カリウムで、五箇山では雑草と蚕の糞を利用して抽出する培養法が行われていた。五箇山は流刑地にもなっていた陸の孤島である分、原料調達の長所のほかに秘伝の漏洩を防ぐという意味でも適しており、稲作に不向きな土地柄で養蚕とともに発達した家内工業の一つであった。一帯では現在は水田が見られるが、それらのうち少なからぬ部分が戦後に転作されたものであり、もともとの農業の中心は、焼畑によるヒエ、アワ、ソバ、および養蚕のための桑である。ヒエやアワの収穫は自給分が精一杯であったから、その分家内工業の存在が大きくなった。

出典 http://ja.wikipedia.org

不滅の火

火種の乏しいかった頃の話です。
いろりに燃える炎を絶やすことは、家の恥と言われていました。

山崎甚三郎は物陰から落武者の藤島道玄という刀匠の様子をじっと伺っていました。
道玄は九頭竜川のほとりで刀を鍛えていたが、新田義貞に請われ南朝方につきました。

主君が越前藤島の戦いで壮烈な最期をとげ、遺臣と平家の落ち人の里へ逃げて来て、山崎甚三郎の家に身を寄せたのです。

道玄は守ってきた火種の火を神前に供えました。

刀匠にとって、火は何にも優るもので、決して汚してはならないものでした。
道玄は神前に祈願し、その火を鍛練所に移し、刀を打ち始めました。

それを見ていた山崎甚三郎は、その崇高な姿を見て身が引き締まり、強引に弟子になってしまったそうです。

そしてその後、藤島家と山崎家は三代、およそ八十年に渡り生活をするという深い絆で結ばれました。


元中九年(1391)南北両朝合一の気運が起こったのですが、合一とは名ばかりのものであることは、五箇山にこもっていた義貞の遺臣たちにわからぬはずはないのです。
彼らは拒否し、業をにやした飛騨の北朝方は応永三年(1396)五箇山を急襲し、武具の足りない南朝勢を蹴散らしました。

山崎甚三郎の子孫は南朝方の遺臣ではなかったので、難を避けることができたのですが、道玄の子孫は火を捧げもって加賀の松任に逃げました。

藤島道玄の火は二か所、五箇山と加賀に分かれて燃え続けているといいます。
(参考・民話と伝説・北陸)

世界遺産 合掌造ライトアップ【白川郷・五箇山菅沼・五箇山相倉】

四季折々深く味わうことのできる景観

「A panoramic view of Ainokura village, a world heri...」

しんしんと雪が降り続ける山里を包み込む冷たい空気と温かい物語。

相倉合掌造り集落(富山県)

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